光子

古代から、光の本性については「光の波動説」と「光の粒子説」の2つが存在し長い間に渡って対立していた。長年の対立の末、19世紀末ごろに電磁場に対するマックスウェルの理論ヘルツによって検証されるに至ると、光の本性として光の波動説は確立されたかのようにみなされた。ところが、黒体輻射の一部のエネルギー分布を理由付けるにあたって、光の波動説が無力であったことから、プランクは物質のエネルギー吸収・放出の性質としてエネルギー量子の概念を発表した。

ドイツの物理学者のアルベルト・アインシュタインは、これを進めた上で、光の波動説に立ってはいたものの光(電磁波)の本性として新しい光の粒子説(光量子仮説)を主張した。

アメリカの物理化学者ギルバート・ニュートン・ルイスは、自身のミドルネームの"ニュートン"を意識したかのように、上記研究に1年遅れて、古典的な光の粒子説を採用した上でアインシュタインと同種の領域で内容的に異なる具体的な研究成果を発表した。

それぞれ微妙に異なる光の本性に関する研究が平行していたが、第一次世界大戦を経た1920年代に入ると、アーサー・コンプトンによるコンプトン効果の研究に端を発して、1926年から1927頃にかけて、それら二つの系統は光子(photon)という名称で一応の統一がなされた[4][5]

量子力学によれば、光子は1927年春にハイゼンベルグが提唱した素粒子の位置と運動量は同時に決められないという不確定性原理と、1927年9月にボーアが提唱した素粒子の波動としての性質と粒子としての性質が二重に成り立つという相補性原理に従う素粒子である。また、湯川秀樹原子核の安定性を理論付けた中間子論においてモデルとした素粒子であった。

wikipediaから引用